奄美諸島の歴史は日本本土や沖縄とも違う、独自のものがあり興味深い。
穏やかな時代もあり、苦難の時代もありだったが、そんな中で島の人々は時代の波にもまれながらも誇りを持ち、助け合いながら生きてきた。
≪先史時代~奄美世・あまんゆ≫
紀元前28000~後10世紀頃 旧石器・縄文・弥生・古墳時代・大和朝廷時代頃 |
日本本土・沖縄とも交流盛ん。「日本書紀」「続日本紀」などに奄美についての記述あり。遣唐使の奄美経由も。 |
≪グスク時代~按司世・あじゆ≫
11~14世紀頃 鎌倉・室町時代頃 |
各集落ごとにグスクが作られ、按司(豪族)が統率した。その後、 壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れた平家が奄美へ逃れ、奄美を統治。 |
≪琉球時代~那覇世・なはゆ≫
15~16世紀頃 室町・安土桃山時代頃 |
琉球王国が奄美を統治(約220年間)。地区を分ける「間切」の使用もこの頃から(島唄にも「大島7間切」の歌詞が出てくる)。ノロ制度導入。薩摩の島津氏が琉球・奄美の支配を画策。 |
≪薩摩時代~大和世・やまとゆ≫
17世紀~1879年頃 江戸時代 |
薩摩藩が琉球・奄美を支配し、奄美では黒糖の生産を強要。薩摩藩は200数十年もの間、奄美から黒糖を搾取することで当時の借金財政を建て直し、有力藩へと躍進することができた。 西郷隆盛が奄美に潜居(1859~1862年)。 |
≪明治~現代≫
1879~2010年以降 明治~平成22年以降 |
県は明治中頃まで黒糖の独占販売を継続。第2次世界大戦終戦後からアメリカが奄美諸島を占領(昭和20~28年・1945~1953年)。島民一体となった激しい復帰運動により昭和28年12月25日に日本復帰。 |
歴史秘話
≪薩摩義士伝と奄美の関係≫
宝暦治水とは、1754~1755年(宝暦4~5年)に江戸幕府の命で行われた薩摩藩による木曽川、長良川、揖斐川の3河川の治水工事であるが、その時に工事にあたった薩摩藩の人たちを「薩摩義士」と呼ぶ。
この工事は難工事であり、当時工事にあたった人たちの中から多くの病死者や切腹者を出した。
その後、岐阜県海津市には薩摩義士を祭る治水神社が建立された。薩摩藩士の功績と供養の為の慰霊祭が今でも毎年行われている。
ここまでは歴史上よく知られていることであるが、実はこの工事が奄美と深く関係していたことはあまり知られていない。
薩摩藩は数十万両といわれる莫大な工事費用をまかなうために、給与を代わりに黒糖で支給することも行っていた。
奄美群島の黒糖生産もさらに厳しい取立てを行ったため、現地ではさらにサトウキビ畑の面積を広げざるをえなくなった。
通常であれば自家用にサツマイモを植えていた畑にもサトウキビを植え、その代わりに人々は山の斜面などを切り開いてサツマイモを植えた(サツマイモは当時貴重な食料だった)。
ところが奄美とは言え山の斜面に植えられたサツマイモは寒さにより育たず、奄美では多くの飢餓による死者が出た。
≪諸鈍シバヤと平家の落人伝説≫
「諸鈍シバヤ」とは、1185年壇ノ浦の戦いで敗れ奄美大島まで逃れた平資盛一行が瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に城を構え、その地で島民に教えた踊りとされる。
昭和51年、国の重要無形民俗文化財の第1号として指定されている。
因みに平資盛の他、このときに行盛・有盛らも同行しており、それぞれが奄美各地に築城したと伝えられている。
一方で史実はどうかというと、資盛ら3兄弟は壇ノ浦の戦いで戦死(入水)したことになっている。つまり、踊りのほうは重用無形民族文化財に指定されているにもかかわらず、史実としては彼らの奄美来島はなかったこととされているのだ。
個人的な見解だが、彼ら3兄弟は敗戦後、一旦は西走し、(入水はせず)その後船を手配して奄美へ渡ってきたのではないかと推測する。
≪実久三次郎伝説≫
瀬戸内町加計呂麻島の実久には「実久三次郎神社」という神社がある。
実久三次郎とは源為朝の子といわれ、為朝が本州から琉球へ渡る途中、奄美でもうけた子といわれている。
また、源為朝はさらに琉球に渡り、そこでもうけた子が後の琉球王舜天といわれている。
これもまた史実とは異なる。
史実で源為朝は伊豆大島で自害したことになっている。
これら源為朝が琉球へ渡ったという話や実久三次郎の伝説は島津氏の作り話であるというのが今日の歴史家の通説である。
つまり、琉球を支配した薩摩藩は琉球支配を正当化させたかった。
そのため羽地朝秀(島津氏。後の「中山世鑑」編纂者)をもって無理矢理「島津氏は清和源氏の末裔」という説を唱え始めたのである。
奄美にまつわる人物
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